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東京高等裁判所 昭和42年(ネ)1358号 判決

控訴人(附帯被控訴人) 国

訴訟代理人 小川英長 外五名

被控訴人(附帯控訴人) 山本一己 外二名

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

被控訴人らの控訴人に対する請求を棄却する。

本件附帯控訴を棄却し、当審における附帯控訴人らの予備的新請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人(附帯控訴人)らの負担とする。

事実

控訴人・附帯被控訴人(以下、控訴人という)代理人は、主文と同旨の判決を求め、被控訴人・附帯控訴人(以下、被控訴人という)ら代理人は、控訴棄却の判決を求め、附帯控訴として、「原判決中被控訴人ら敗訴の部分を取消す。控訴人は被控訴人らに対し各二四五万四五四五円を支払え。訴訟費用は、第一、二審とも控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張ならびに証拠の提出、援用および認否は、次のとおり附加するほか、原判決事項摘示のとおりであるから、これを引用する(但し、原判決一二枚目-記録二六丁-表一一行目に「原告山本ミヨ本人の当事者尋問」とある後に「(第一、二回)」を加える)。

一  被控訴人ら代理人は、次のように述べた。

1  本件請求は、山本忠一の死亡による損害賠償の請求であるが、右請求が理由がないとすれば、予備的に亡山本忠一が手術上の過失に因り受けた傷害による損害賠償として夫々金一〇〇万円を請求する。すなわち、亡山本忠一は、国立東京第二病院において成田医師によつてなされた頸動脈穿刺、脳血管前後像撮影が何れも失敗したことから推認される施術上の過失により意識障害、左半身麻痺等の傷害を受け、被控訴人らはこれにより精神上著しい苦痛を覆つた。被控訴人らの右苦痛は、各自一〇〇万円を得て僅かに慰藉されるものであるから、被控訴人らは控訴人に対し同額の慰藉料を請求する。

2  本件頸動脈穿刺には施術上の過失があつた。

控訴人は、後記二1(イ)において、『頸動脈は静脈と異り深奥部にある上、頸部の自然の動きで針が抜け出ることもあつて常に一回で穿刺に成功することは不可能であるから、成田医師が、二回にわたつて頸動脈の穿刺をしたことは異常でない』というが、問題は、一度の誤穿が医術上人の健康に支障をきたす恐れがあるか否かであり、現に忠一はその施術中に失神し、左半身麻痺を起したのである。従つて習熟者でなければ穿刺施術をしてはならないはずである。次に、控訴人は、後記二1(ロ)において、誤穿に基く血腫には健康上危険を伴わないという。しかし、その理由として血管外に生ずる血腫が血管内の血栓とならず、また本件の注射針の太さでは血栓を生ずるだけの血管壁剥離を起こすことが不可能であるというのは、血腫の程度およびこれによる病的影響ないし誤穿の反覆の如き問題を無視している。

3  控訴人は、後記二2において、本件手技の時間は通常の場合よりむしろ短く、前後像の写真の不完全は医師の未熟によるものではないという。しかし、本件手技は、前後像撮影に失敗して再度撮影の準備にかかつたため、正常に行なわれた場合より時間が多くかかつたのであり、撮影の失敗自体不手際である。控訴人は後記二2イにおいて指導書〈証拠省略〉の一部を援用して本件の施術に遺憾のないことを力説するが、右指導書には援用部分に続いて「針を抜去した後は注射部位頸動脈を数分間圧迫して血腫を予防する。……三時間患者を安静臥床させる。」と極めて重要と思われる部分があることについて控訴人はなんら触れるところがなく、施術中発見した山本忠一の異状が医師の責任の範囲外にあることにつき理由を明らかにしていないし、後記二2ロにおいて前後像の写真の不完全が医師の未熟によるものでないことについても同様である。

4  控訴人は、後記二3おいて本件血管撮影はその後に生じた意識障害および運動麻痺の症状の原因となるものではないという。しかし、前後像、側面像の各写真が穿刺による影響につき果してどの程度の証明能力を有するかは疑わしく、もしきめてとなるとすれば何のために造影剤を注入するかが問題となるであろう。控訴人が亡山本忠一に既往症のあることを前提としながら同人に対する施術に必要な予防措置を講じたか否か、講じなかつたとすれば、そのことに過失があるか否かの問題を回避しているのは不当である。控訴人は、亡山本忠一の死の原因が不明であるというもののようであるが、もし控訴人が死因を脳軟化症であると断じ、しかもその発生原因が本件自動車事故により頭部にうけた衝撃以外のものにあるというのであれば、一般に脳軟化症は脳内出血を原因とすることが医学上ありえないことを証明しなければならない。

二  控訴人代理人は、次のように述べた。

1  本件頸動脈穿刺に施術上過失があつたとはいえない。

イ  本件穿刺に異常はない。

脳血管撮影の際動脈撮影用注射針を刺入すべき総頸動脈は、皮膚表面よりは約二センチメートルの深さの所を走る血管で、その太さも個人差があり、しかも老人では血管内腔が狭窄している場合があり、その上、総頸動脈を穿刺し得ても嚥下運動や頸部の動揺により刺した針が抜け出しやすい傾向もある。そこで、いかに熟達した医師でも常に一回で総頸動脈穿刺に成功することは不可能である。本件昭和三七年一二月一四日の施術においては、第一回の穿刺は総頸動脈に入り血液の噴出をみたが、頸部の自然の動きで針が抜け出た。そこで第二回目を最初の個所より約二センチメートル上部に穿刺したところ、血液の噴出良好で抜針もなかつたので、続いて撮影を行つた。このような経過は珍らしいことではなく、本件穿刺は決して異常ではない。

ロ  本件血腫にはなんら危険がない。

頸動脈穿刺の後には必ず血腫が生ずる。本件の場合第一回穿刺の針の抜けた後にできた血腫は血管と表皮との間に生じた直径約一センチメートル大のもので、血管の外にできたものであるから、血栓を作ることはありえず、また第一回穿刺による血管壁の注射針直径大の損傷によつて弾力性に富む血管壁が剥離し剥離物による血栓を作ることもありえない。以上の理由により、本件血腫には危険がない。

2イ  本件手技の時間は通常の場合よりむしろ短い。国立東京第二病院における頸動脈撮影の方法も岩手医大光野孝雄教授の所説通り『前略左右像を撮影する。(中略)撮影後……写真現像終了する迄、注射針を動脈内に刺入したまま待つ、写真が充分良く撮影されていれば注射針抜去するが、不充分であればもう一度撮影して抜針する。』〈証拠省略〉とされているとおり、写真現像終了までは注射針をさしたまま次の準備をして待つのであり、造影剤を注入して先ず前後像を撮影し、後で造影剤を注入して左右像を撮影し各写真の現像結果が十分良く撮影されているのを確認して抜針するという正規の所要時間は前後像撮影後左右像撮影までに約五分、左右像すなわち側面像の写真の現像に約一〇分ないし一五分であるから、すくなくとも約一五分から二〇分を超える。ところが、本件の場合成田医師は側面像撮影後未だその現像末了のうちに前後像写真の現像結果が造影不良であることを知り再撮影の準備にかかつたところ、山本忠一の異状を発見し、そこで抜針したものであるから、針を刺した体勢は、前後像写真の現像に要した約一〇分ないし一五分に前後像現像完了後一、二分を加えた約一一分ないし一七分に過ぎず、通常の所要時間より短かかつたものである。

ロ  本件前後像の写真の不完全は医師の末熟によるものではない。医師の注入する造影剤の量は一回一〇〇CCが常であつて、造影剤不充分ということはあり得ない。診療録〈証拠省略〉に「像影剤不充分のため」とあるのは造影不充分の誤記であつて、前後像撮影の際の露出はX線の技師が決定する。しかし、頭蓋の前後径および骨の厚さには個人差があり、また動脈硬化等脳循環状態の相異により血管における造影剤の疎通に差等も生ずるので、適正露出は容易に知り得るものではなく、露出の強弱は過失によるものではない。

3イ  本件血管撮影後に出現した意識障害と運動麻痺の症状の原因は、次の四項目にわけて考えられる。第一は血管撮影のための穿刺による影響(血管損傷や局部大出血による血栓)、第二は造影剤注入による特異反応(穿刺時のウログラフインによるショック、血管収縮に伴う頭痛、吐気、嘔吐、半身麻痺、けいれん等)、第三は脳神経以外の器官の疾患の増悪(心不全等)、第四は血管撮影そのものではなく精神的緊張または身体的な動揺等の場合、環境的な因子による潜在性の疾患、進行性の疾患の症状の誘発、出現である。これらの可能性を本件の場合について検討すると、第一については、血管損傷、大出血、血栓等があれば写真に写るはずであるが、前後像〈証拠省略〉、側面像〈証拠省略〉にはそのような所見は見あたらず、また、意識は約三〇分で回復し運動麻痺が一過性のものであつたことから否定される。第三、第四については、これを惹起するような内科的な重篤状態が存しなかつたのでこれらが原因をなすものであるとは考えられない。残るのは第二のウログラフインによる特異反応についてであるが、このおそれは一般的には、術前の過敏性のテストに異状を認めなかつたことにより、また、第一回の左頸動脈撮影が無事に行われていることにより、一応否定される。ことに、重要な血管撮影の際の特異な異状反応としての血管けいれん(収縮)は、術前の星状神経節遮断によつて予防されており、また、現に右頸動脈写真撮影の側面像で造影剤が末梢まで到達していて通常の血管収縮の際にみられる所見(血管が急に細くなつたり、または、断絶しているように写る)が見られず、他に血管収縮を疑わしめるような徴候も認められていない。もつとも、他に特異反応の一として血管撮影の際のきわめて稀な異常反応、すなわち、ウログラフイン通過時に病的なあるいは潜在的病的な脳神経組織がウログラフインに対する耐性の低下により、特異的に反応して起す一過性の障害が考えられる。この点について、山本忠一は、昭和三六年から進行性の脳神経疾患の経過中で、これに動脈硬化症(眼底では著名な交又現象があり、脳血管撮影では左中大脳脈系に強い)を伴つており、また、入院時に右側運動麻痺のほかに左側にも運動機能検査では軽度の障害を既に認めていた。このようなことから、山本忠一の脳神経組織は正常の状態にない部分があり得たものである。そして、術後に生じた意識消失、左側運動麻痺もその一過性の症状からみて、右のウログラフイン通過時に病的なあるいは潜在的に病的な脳神経組織中にウログラフインに対する耐性が低下しているところがあつてそれが特異的に反応を起して生じた障害によるものであるとの疑がある。

ロ  そして右のように本件血管撮影後に出現した意識障害と運動麻痺の症状がウログラフインによる特異反応によるものであるとするとそれはやむを得ないものである。血管撮影は既に特に重篤な疾患の存する患者に対してはこれを避けるべきであるとされているが、このような疾患がないかぎり、それは、一般に病的状態にあると疑われる脳中の組織を検索するための須要な手段であつて、血管撮影用薬液ウログラフインは当時最も副作用が少ないとされていたものであつて、これによる血管撮影は極めて高い診断価値を有し、外科的脳疾患では常例的に重要な検査となつていた。そして、山本忠一の当時の症状は決して重篤なものではなかつたから、成田医師が前記のごとき過敏性テストその他の危険防止措置をしたうえ本件血管撮影をしたのは相当であつて、現にその撮影によりウイルス環の閉塞の如き異状所見を認め得たのである。本件のごとき病症検査の際、本件の如き意識障害や運動麻痺が起ることは一般にないことであつて、本件の場合患者の脳内の神経組織に特にウログラフインに対する特異的反応をする部分があるというようなことは現代医学上全く予見できなかつたものである。したがつて、本件意識障害および運動麻痺は予めこれを避けることができなかつたものであつて成田医師になんら過失はない。

三  〈証拠省略〉

理由

一  〈証拠省略〉によれば、昭和三七年一一月一二日正午頃東京都世田谷区玉川奥沢町三丁目二九二番地先の交差点において、亡山本忠一(以下、忠一という)が南方東寄の角から北へ渡ろうとして横断中、東西に走る道路の中央を西から東に向つて走行してきた古川一五郎運転の自動車(品五あ〇〇一〇)がその車体右前フェンダーを忠一に衡突せしめたことを認めることができる。そして、〈証拠省略〉によれば、前記交通事故における忠一の負傷は後頭部打撲傷および両膝蓋部打撲擦過傷であつたことが認められる。

忠一は右の負傷の治療のため、一旦玉川等々力所在の共愛病院に入院したが、頭部の精密検査のため、昭和三七年一一月二八日国立東京第二病院(以下第二病院と略称する)に入院し、医師小坂太郎、同成田洋夫の診療を受けたこと、成田医師は同年一二月一〇日脳血管撮影(頸動脈写、以下同断)のため造影剤を忠一の左頸動脈に注射して撮影し(第一回施術)、更に同月一四日同じ目的のため右頸動脈に注射して撮影したこと、この施術で忠一は意識を喪失し、翌日意識障害は消えたが、左顔面半分、左手等に麻痺が認められたこと、同月一九日歩行は可能となり、硬直状態は消滅したが、入院時の症状のほか左半身の軽度の不全麻痺、左手指の麻痺を残したまま退院したこと、然るに昭和三九年三月一二日忠一は死亡するに至つたこと、以上は当事者間に争いがない。ところで、被訴控人らは、忠一の死亡は自動車事故による傷害と成田医師の実施した施術上の過失により生じた前記傷害とがその原因であると主張するので、以下順次その主張を検討する。

被控訴人らは、まず、このような施術は不必要でもあり、危険でもあつたと主張する。しかし、忠一の入院の目的が精密検査を求めるにあつたことは前敍のとおりであり、〈証拠省略〉によれば、第二病院入院後、施術前の診察により忠一には健忘性失語症、失書症、失読症、左右識障害、右半身運動麻痺、手指失認等の神経症状、時に頭痛の症状のあることが認められ、しかも、昭和三七年一一月三〇日行われた腰椎穿刺の結果によれば、忠一の髄液は、圧は正常であつたがグロブリン反応が陽性で、総蛋白量が一デシリットル中九〇ミリグラムに増量していることが認められるのであつて、かような症状の下において頭蓋内血腫ないし脳血管障害(脳動脈硬化、脳軟化等)その他の器質的病変を疑うのは当然であり、頭蓋内血腫ないし脳血管障害の確実な診断のためには、患者の状態が高度に悪い場合でないかぎり脳血管を頸動脈に造影剤ウログラフインを注入して撮影することが必要であるところ、忠一は右の検査もできないほど悪い状態ではなかつたと認められるから、これを不必要な施術であるということはできない。また、〈証拠省略〉によれば、ウログラフイン注入による脳血管撮影については二、〇〇〇余例の実施に対し一過性麻痺が三例、一過性痙壁が一二例、嘔吐一例、死亡一例の副作用発現率が昭和三九年一〇月一〇日学界誌に報告されているが、右死亡の一例は、重篤な高血圧性脳橋出血の患者に誤つて椎骨動脈写を行なつたものであり、昭和三七年一二月当時脳関係の疾病を担当する医師にとつて脳の器質的病変を診断する気脳撮影、気脳室撮影、造影剤脳室撮影、脳血管撮影などのうち脳血管撮影がもつとも苦痛を与えることが少く、危険も少ないものと考えられていたことが認められる。施術前、成田医師が忠一の妻である被控訴人ミヨの承諾を得たことは当事者間に争いがないが、〈証拠省略〉によれば、成田医師は、右承諾を得るに際し被控訴人、ミヨに対し、全く危険がないとはいえないが、まず、大丈夫であるとの趣旨を述べたと認められるから、前認定をあわせ考えれば、特に危険度を暗示しただけで患者の妻に率直な説明をしなかつたなどと見るべきものではない。

進んで、脳血管撮影実施状況を見るのに、〈証拠省略〉によれば、昭和三七年一二月一〇日の左側頸動脈注射による撮影は順調に実施されたが、その結果をレントゲン写真によつて見ると、前大脳動脈が写つていないので、ウイリス環に閉塞があるのではないかと疑われて反対側からの脳血管撮影が必要となつたことが認められ、したがつて第二回目の施術を不必要であつたと見ることは相当でない。

そこで、同月一四日に行われた第二回目の施術の経過をみるのに、〈証拠省略〉によれば、次の事実が認められる。すなわち、成田医師は、昭和三七年一二月一四日患者の苦痛を避け、身体の異常反応を避けるため、鎮静剤二錠を与え、オピスタン二分の一管を注射し、粘膜反応で試験するためウログラフインを右眼粘膜に滴下し、次で、痙攣を伴わないように星状神経節を遮断し、同日午後二時二〇分忠一の右頸動脈に触れてみたうえ、注射針を右頸動脈に刺した。針は一応頸動脈に入り、血液の噴出を見たが微弱で、操作中に抜け皮下組織に直径一センチメートル位の血腫を作つた。そこで、注射針を二センチメートル上部に刺したところ頸動脈に適中し、血液の噴出良好であつた。次で、六〇パーセントウログラフインを注射し、先ず、前後像を撮影し、次に注射針を刺したまま側面像を撮影したが、その間水写真で前後像の露出弱く造影不十分であることを知り、再度前後像の撮影を行う準備中、忠一が質問に対して応答しなくなり、意識を喪失し、顔面蒼白、共同偏視、脈搏微弱となつたので、意識喪失後約五分経過した同日午後二時五〇分ビタカンフアーを筋肉に一筒、静脈に二筒注射し、さらに、同日午後三時強心剤テラプチツク一筒を筋肉注射したところ、同日午後三時二〇分には忠一の血圧が最高一四〇から最低九〇となり、名を呼べば応答可能の状態に意識が回復したが、左顔面半分と左手に麻痺が残つた。翌一五日には左手の運動はかなり良好となつたがその手指の運動が全く不能であつた。昭和三七年一二月一九日には左手関節より上はかなり回復し挙手可能となつたが、左手指の運動に麻痺が残り、同月二一日には左手指も半把握はできるようになつた。以上の事実を認めることができる。〈証拠省略〉中昭和三七年一二月一四日分のうちに「造影剤不充分のため」とあるのは、〈証拠省略〉および弁論の全趣旨に鑑み「造影不充分のため」の誤記であると認められる。被控訴人山本ミヨの原審における第一回供述のうち、前記認定に反する部分は採用せず、ほかにこれを動かすだけの証拠はない。

そこで、本件頸動脈穿刺および脳血管撮影に施術上の過失があつたか否かについて検討する。

先ず、右頸動脈穿刺に一度失敗して血腫を作つたことについて〈証拠省略〉には、岩手医科大学教授光野孝雄の所説として、脳血管撮影法の副作用の一つとして脳塞栓を挙げ、脳塞栓の原因として穿刺により剥離した動脈壁の一部、あるいは凝血、空気等が栓子となつたものであることを掲げ、これを承けて「従つてその予防には動脈穿刺を一回で成功するように手技に習熟すること」も必要である旨記載されている。しかし、前記認定事実ならびに忠一に対し成田医師が昭和三七年一二月一四日(第二回)に行つた脳血管撮影の側面像であること〈証拠省略〉によれば、脳血管撮影の場合、二回頸動脈に穿刺することは別に稀なことではなく、医家により通常用いられる術式上の注意義務違反ないし過誤と認めるほどのものでないばかりではなく、造影剤が脳血管の末端にまで行きわたつていることに徴して穿刺による血栓形成はあり得ず、しかも一時的運動障害ないし一過性運動麻痺は、頸動脈を一回穿刺した場合は起きないが、二回穿刺すると起きるというものではないから、本件で起きた一時的運動障害ないし一過性運動麻癖が成田医師の動脈穿刺が一回で成功しなかつたことによるということはできず、頸動脈穿刺の際皮下組織に直径一センチメートル位の血腫を生じてもそれ自体危険なものではなく、これによつて一時的運動障害もしくは一過性運動麻痺を生ずるものでもないことが認められる。

次に、前認定事実によれば、本件ウログラフイン注入による脳血管撮影に費した時間は三〇分以内であると認められるところ、〈証拠省略〉によれば、脳血管撮影にこの程度の時間を費すことは稀ではなく、これによつて一時的運動障害ないし一過性運動麻癖または死亡を生ずることはないから、成田医師が本件施術を異常に氷引かせたということはできないし、また、その程度の時間を要したことが、忠一の身体障害ないし死亡の原因の一つであるということもできない。

さらに、忠一が本件ウログラフイン注入による脳血管撮影中に意識を喪失し、その後一時的意識障害ないし一過性運動麻痺に陥つたことにつき果していかなる原因によるものかについて検討する。〈証拠省略〉によれば、次のとおり推認することができる。およそ、脳血管撮影(頸動脈写)後に意識障害と半身運動麻痺が生ずる原因としては(一)穿刺部分の血栓形成、(二)穿刺部からの栓子による栓塞、(三)穿刺という機械的刺戟あるいは造影剤に対する反応としての血管攣縮、(四)造影剤の刺戟による脳浮腫、(五)潜在的疾患の増悪などがあるが、(一)のありえないことは前認定のとおりであり、(二)も右頸動脈写像に照らすとありえない。もつとも、栓子がきわめて小さく、レントゲン像から判別し得ない場合はあり得るが、このような場合には結果として生ずる神経症状も軽微なはずであるから、本件に妥当しない。(三)の血管攣縮も頸動脈写像に照らしてあり得ない。(四)の脳浮腫はウログラフインことに六〇パーセントウログラフイン注入によつて起ることは、きわめてまれであるが脳動脈硬化、脳血管病変が存在する場合に起ることがある。もつとも、これらの病変を最も確実に診断する方法は恰も脳血管撮影にほかならないから、この可能性があるからといつて脳血管撮影を禁忌すべきではない。脳浮腫は可逆性を有するから、一旦神経症候が生じても、おおむね、時とともに消失する。(五)脳血管障害以外にも脳に病変の潜在している場合、血管撮影により症候が増悪することもないではないが、症候の増悪はおおむね一過性であつて、一過性脳浮腫が症候の増悪に大きな役割を果していることが多い。以上の諸点を考えながら、忠一の意識障害および半身運動麻痺の原因を追及してみると、忠一には昭和三六年頃から徐々に進行する神経症候があり、眼底には動脈硬化の所見が認められ、昭和三七年撮影のレントゲン写真によれば脳動脈硬化が認められるので、脳動脈硬化およびこれに伴う神経症候があつたものと言うべく、更に何らかの器質的病変が存在していて、これが造影剤に対する反応として一過性脳浮腫を起し、そのため意識障害と左半身運動麻痺とを来たし、これらの神経症候は脳浮腫が消退するとともに改善したが、ある種の器質的病変のため弱つていた一部の神経細胞が脳浮腫のため障害され、その結果運動麻痺が一部残つたのではないかと推認するのが相当である。

要するに、六〇パーセントのウログラフインの頸動脈注入による脳血管撮影は、脳血管の病変の診断に最も確実な方法であるとともにその副作用の起きることは極めてまれであつて、これによる危険は殆んどないと言つてよいのであるから、成田医師が二回にわたつて右の施術を実施したことには過失がなく、又第二回施術において二度右頸動脈を穿刺したこと、皮下組織に直径一センチメートル位の血腫のできたこと、および施術所要時間が三〇分以内と考えられることはいずれも施術上の過失と目するに当らないばかりでなく、その施術中忠一に生じた一過性の意識障害ないし一過性の左手等の運動麻痺の原因とは認めにくい。結局右の障害は予見できないと思われるような極めてまれな経過-即ち六〇パーセントのウログラフインの注入の場合は脳浮腫の発生は極めてまれであるが、本件の場合これが起き、この脳浮腫により意識障害と左半身運動麻痺を来たした。然し、時と共に脳浮腫の消退に伴い、意識障害などの神経症候は改善されたが、既に存在していた脳のある種の器質的病変のため弱つていた一部の神経細胞が脳浮腫のため障害され、その結果運動麻痺が一部残つた-という経過をとつて発生したと推断するほかはない。

三  以上の事実関係に照らすと、忠一に対する脳血管撮影の施術に関し、小坂・成田両医師に過失はなかつたものと認めるほかはないのであるから、その他の点について判断するまでもなく、被控訴人らの控訴人に対する請求および当審における新請求はいずれも理由がなく、右と異なる判断のもとに被控訴人らの控訴人に対する請求を一部認容した原判決は、そのかぎりにおいて不当であるから民訴法三八六条を適用してこれを取り消し、右の被控訴人の請求を棄却し、また、被控訴人の附帯控訴および当審における予備的新請求もこれを棄却し、訴訟費用の負担につき同法八九条、九三条、九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 室伏壮一郎 園部秀信 森網郎)

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